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『ガンモ』は、1997年公開のアメリカ映画。

題名のGummoとは米国で有名であった喜劇俳優、ガンモ・マルクスに由来するものとされている。舞台となるのはオハイオ州のジィーニャという小さな田舎町。数年前の竜巻による混乱で町は疲弊しており、その中で生きる人々の暮らしを、猫を肉屋に売って小遣いを稼ぐ少年と、その友達の青年の二人の行動を主軸として描く作品。

 何年か前に公開された映画『KIDS』は、伝説の写真家ラリー・クラークの監督作ということで話題になったが、筆者はどうもこの映画が好きになれなかった。キッズの存在を通して”いま”を描きながら、その肝心な部分が曖昧にされているように思えたからだ。

  この映画には、セックスやドラッグとともにAIDSという要素が盛り込まれているにもかかわらず、映画はそのAIDSという現実に対する主人公たちの反応や姿勢を明確に映しださないままに終わってしまい、それを描かないことで何とも曖昧な余韻をかもしだすのだ。

 これは奇しくも同時期に公開された北野武の『キッズ・リターン』の展開とは見事に対照的である。こちらは全体的に見れば、いまとは程遠いノスタルジックな設定に基づいているにもかかわらず、 ふたりの主人公たちが限りなく死に近い挫折を潜り抜けるというただ一点だけでしっかりと現在に切り込んでくるのだ。

 それを思うと、肝心の部分を曖昧な余韻にすりかえる『KIDS』の脚本の狡猾さがいっそう鼻につく気がした。 だから、19歳にしてこの脚本を書いたというハーモニー・コリンに対する印象は決して芳しいものではなかった。

 そんなわけで、コリンの初監督作品となる『ガンモ』にはほとんど期待をしていなかったのだが、その予想は見事に裏切られた。『KIDS』の時には彼のオリジナリティがラリー・クラークの影に隠れてしまったのか、短いあいだに急激な成長を遂げたのか定かではないが、 とにかく「ガンモ」は何とも新鮮で素晴らしい映画だった。

 映画の舞台は、実際に70年代半ばに強烈な竜巻に襲われた、オハイオ州にある町ジーニアという設定。町は竜巻の傷から立ち直ることができず、人々は貧困に喘ぎ、それでも日々の営みはつづいている。

 この映画にはこれといった物語の流れはなく、 少年少女たちを中心に住人たちの日常の断片がコラージュされていく。その登場人物たちのなかにプロの役者はほんの一握りで、ほとんど地元の住人たちが起用され、即興的な要素を大胆に取り入れたコリンの演出からは、目をそむけたくなるほど生々しくリアルでありながら、 同時に悪い夢を見ているように幻想的でもある奇妙な世界が広がっていく。

 ピンクのうさぎの帽子をかぶったスケボー少年は、陸橋の上からハイウェイを行き交う車に唾を吐き、トイレにこもってアコーデオンを奏でる。自転車で町中をうろつき回る二人組の少年たちは、空気銃で野良猫を撃ち、殺して肉屋に持ち込み、金ができるとシンナーをやり、 町のぽん引きを訪ねる。ぽん引きの家で彼らを歓迎するのは知恵遅れの女だ。

◆スタッフ◆

監督/脚本 ハーモニー・コリン Harmony Korine

撮影ジャン・イヴ・エスコフィエ Jean-Yves Escoffier

編集クリストファー・テレフセン Christopher Tellefsen

◆キャスト◆

バニー・ボーイ ジャコブ・セーウェル Jacob Sewell

タムラーニック・サットン Nick Sutton

ソロモンジャコブ・レイノルズ Jacob Reynolds

ドットクロエ・セヴィニー Chloe Sevigny

 ペットの猫と戯れる以外に何もやることがない三人姉妹は、自分たちの乳首を粘着テープで刺激して暇を潰している。パーティに集まった町の男たちは、酒の勢いで壮絶な取っ組み合いをはじめる。白人のゲイの若者は、黒人の小人を誘惑する。

 こうして並べてみると一体どんな映画なのかと思われるだろうが、確かにこの映画の魅力を言葉にするのは簡単なことではない。プレス資料にあるように、ダイアン・アーバスやカサヴェテス、フェリーニやヘルツォークなどと対比されるのもわからないではない。 が、それはあくまでスタイルにある種の共通点があるということで、ここでコリンが描く世界はもっと現代的な視点がある。

 実は筆者がこの『ガンモ』にはまってしまったのは、ひとつには、その世界が、アメリカで異彩を放っているゲイの作家/詩人デニス・クーパーの世界を彷彿させるように思えたからだ。『ガンモ』がアメリカ中部のホワイト・トラッシュの世界をいているのに対して、クーパーは主に西海岸の中流の世界を描くというように、 具体的な設定には開きがあるが、彼らの世界はもっと深いところで共鳴するところがある。

 クーパーの連作短篇集『クローサー』では、物語の語り手となる主人公が次々とかわりながら、登場人物たちが共有する世界の出来事が綴られていくことになるが、視点がかわり、どこまで話が進もうとも世界の現実感は希薄になるばかりだ。そして、セックスや暴力を通して、彼らが欲望と不安に満ちた肉の固まりで、 過去も未来もない刹那的な思い込みの世界をさまよっているという事実だけが浮き彫りにされていく。たとえば「ガンモ」とはそのような映画であり、どちらも死のイメージが作品を支配している。

 クーパーの『TRY』では、セックスと虐待という暴力で繋がる主人公の少年と彼のふたりの父親の関係が、作られたアメリカン・ファミリーのイメージを拭い去る。そして少年たちは、希薄な現実感のなかで、パンク、デス・メタルやサタニズムへと思い込みを広げていく。「ガンモ」でも、 竜巻のエピソードが作られた表層を剥ぎ取り、さまよえる少年たちのドラマの背景には、デス・メタルの音楽やサタニズムのイメージが挿入される。

 しかし、コリンのすごいところは、彼が20代前半とは思えないような題材から、世界に揺さ振りをかけるイメージをたぐりよせてくるところにある。たとえばこの映画には、映画やテレビといった映像メディアの発達によって隅に押しやられ、消え去ることになった生身の身体性を武器とする見世物が随所に引用される。

  コリン自身がゲイの若者に扮して黒人の小人を誘惑する場面は、ブラウニングの『フリークス』に描かれるサイド・ショーの世界を連想させる。自転車でうろつく二人組の少年たちのやりとりには、ヴォードヴィルの掛け合いが盛り込まれ、その片方の少年の母親は、自分の家の地下室でタップダンサーだった亡夫が愛用していた靴を取りだし、 異様な姿でタップを踊ろうとする。この映画の冒頭には、竜巻によって犬が屋根のテレビ・アンテナに突き刺さっている映像が挿入されるが、コリンは社会と人間を均質化するメディアから取り残された世界を構築し、人間の有り様をユニークな視点から見直しているのだ。

 また、この映画の舞台がアメリカ中部という設定であるにもかかわらず、実際にはコリンが育った南部、ナッシュヴィル郊外のホワイト・トラッシュの町で撮影されているというのも非常に興味深い。なぜならそこには自ずと南部のゴシック的な空気が漂いだすからだ。コリンが好きな作家としてフラナリー・オコナーの名前をあげるのも頷ける。 彼女は南部の土壌から独自の暴力的で畸形的、かつ宗教的な世界を作りあげたが、コリンもまたそんな南部のゴシック的な空気を中部の町に引き込み、現代的なデス・メタルやサタニズムと結びつけることによって独自の世界を構築しているのだ。

 コリンは、そんな世界を視覚化するために、8ミリ、ヴィデオ、ポラロイドなどを自在に映像に挿入しているが、そこには映像そのものにも異形の身体性を取り込もうとする野心を垣間見ることができるだろう。

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